「それと、あまりあの世側に近寄るな。あの入り口はいつ閉じるかわからない。向こうへ行ってしまったときに閉じるともはや帰ってはこれない。」「はい」あたしは集中する。すぐにぞわぞわが身体全体を覆うのを感じた。あたしはどうすればよいのかわからなかったが、とりあえずこちらへ向かってくる赤鬼に向かってダッシュし、体当たりを試みる。

  自分の身体とは思えないほどのスピードで赤鬼のお腹のあたりにタックルが決まり、相手は後ろにのけぞる。すかさずパンチの連打。とはいえ、そもそもあたしは格闘技の経験もなく、他人と殴りあったことすらないのだから、勝手がわからない。どのへんをどういう風に殴ればよいのかがさっぱりなのだ。ただ鬼虫たちの力は想像以上であり、赤鬼にはそれなりのダメージが与えられてはいるようだ。ほっとして一瞬力を抜く。しかし相手はまだ目がほとんど見えていないにも関わらずそのスキを見逃さなかった。生まれながらの戦闘マシーンということか。赤鬼の右手のスピードは恐らく常人であれば避けられなかっただろう。だが、あたしは避けた。鬼虫がざわついたからだ。百戦錬磨という門守さんの言葉は誇張ではなかった。

  赤鬼は力余って前のめりにぶっ倒れる。あたしは背中に飛び乗って角を掴んだ。絵で描かれる鬼は三角のまっすぐな角を持っていることが多いが、こいつはどちらかというと水牛のような少し曲がった角を頭の両側から生やしていた。あたしはそれを掴んで思いっきり外側に広げる。ものすごい悲鳴ともつかない声を赤鬼は上げた。やはり痛いのだろうか。けれど硬くてびくともしない。あたしとしてはバリッとかいって角がもげるのを想像したのだけど、そう簡単にはいかないようだ。

  それにしても体力が持ちそうになかった。力の入れ方とか使い方がわからないので、ひたすら全力でやるしかなく、単なる平凡な女子高生のあたしの体力ではもはや限界に近い。年がどうこう言っていた門守さんと比べても体力では劣ってるような気がしてならない。などと思っていると、赤鬼は半狂乱の態で起き上がりそのまま後ろにのけぞるように倒れこんだ。あたしを背中で押しつぶそうと思ったのにちがいない。あたしはそれをかわすと今度は倒れこんだ胸のあたりに跨がり、顔を無茶苦茶に殴る。「おりゃりゃりゃりゃー」とわけのわからない奇声を発しているのはわかったが、もはや自分では制御できなかった。経験したことのない暴力が異様な高揚感を生み出している。拳が赤鬼の顔面にヒットするたびにあたしの奥の何かが妖しく疼くのを感じた。

  我を忘れていたあたしは虫たちがざわつくのも赤鬼があたしの左足首を掴んでいるのも気づかなかった。ふいにあたしの身体が宙に浮き左側に飛ばされた。そのまま身体が鍾乳石に叩きつけられる。表面的な痛みはないが衝撃が内臓にくる。赤鬼はあたしの足を持ったまま立ち上がり大きく腕を振り上げ今度は地面に叩きつけた。そしてもう一度振り上げたとき血で滑ったらしくあたしの身体は後方に10メートル近く飛んだ。気持ち悪い。あたしは地面をのたうって胃液を吐き出す。やばいかもしれない。しかし向こうもすぐにはこちらへ来ようとはしない。あたしのパンチも効いてないわけじゃなさそうだ。くそっ。でもこれ以上続けるとあたしの方が不利だ。なんとかしなければ。

  そのときあたしは足元に落ちているナイフに気づく。あの娘があたしを襲ったときに持っていたものに違いない。拾い上げるとそれはナイフというよりは、短めの柄のない日本刀のようだった。ここに残されていた遺物なのかもしれない。あたしはその短刀を握りしめると赤鬼の横をすり抜けるように駆け抜ける。もちろん横っ腹を短刀で切り付けることは忘れない。あたしは前後左右に駆け抜けながらひたすら鬼を切り刻む。さすがにこれは効いたようだ。赤鬼はうめき声を上げながら、徐々に動きが鈍ってゆく。あたしは背中に回って再び飛び乗る。今度は肩車のようになり太股で首を締めつけた。そして脳天めがけて短刀を降り下ろす。

  硬い。こいつの頭はやたらと硬くできているようだ。あたしはそのまま何度も何度も力いっぱい短刀を頭に降り下ろした。降り下ろす度に赤鬼の動きは鈍くなっていく。やがてガキッという音とともに短刀が根元まで突き刺さった。「ひょーほほほほほほほほほほほ」あたしはテンションがマックス状態になって、鬼の脳天に開いた穴めがけてさらに何度も短刀を突き刺し続ける。血と脳漿が盛大に吹き出してあたしを濡らす。赤鬼はもはやぴくりとも動かない。

  どのくらいその状態だったのかはっきりしないが、あたしは我に返り、短刀を脳天に突きたてたまま赤鬼から下りた。そして奥の二人の元へゆらゆらと歩み寄る。彼らのずっと後方の、あの世があるという光の中に人影が見えた気がした。もっとよく見ようと目を凝らすが光が滲んで人影は消えてしまう。あれいったい誰だったんだろう。ヒルコの一族が同胞の最期を見届けにでも来ていたのだろうか。あたしは二人の前に立つ。門守さんはにっこりと笑ってくれたが、安西はすっかり怯えている。血と脳漿にまみれた黒鬼のあたしはもはや御厨実来理ではないのだろう。ばかやろう。そんな目で見るな。泣いちゃうぞ。

  あたしの意識はそこで途切れた。